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復活節第5主日A年

ヨハネ福音書14:1-14 

 

騒ぐ心

 

「心が騒いでしまう」こと、わたしたちの日常の中にも大小様々あります。

「大丈夫だろうか?」、「心配で仕方がない」、「怖い、不安だ」という思いを抱きますが、それはどのような状況に置かれた時でしょうか? 

 

居場所

 

わたしたち人間にとってもっとも悲しいこと、辛いこと、不安に思うことは、「居場所」、「拠り所」を見出すことができないことです。今日、多くの現代人が「居場所」を求めて彷徨っています。寂しさを感じています。不安を感じています。住むところ、働く場所があるとしても、家の中で、職場で、人間関係の中で、自分の「居場所」を見出せずにいる人々がいます。

 

弟子たちにとっては、イエスさまが「拠り所」であり、「居場所」でした。しかし、そのイエスさまはその弟子たちから立ち去る、居なくなることを示唆します。

 

弟子たちはすべてを捨ててイエスさまに従ってきました。それが失われようとしている・・。

弟子たちは不安を抱きます。どこに行ってしまうのだろうか。どこに居場所を見出し、拠り所として生きていけばいいのだろうか?と。

 

道であるイエス

 

イエスさまの弟子たちが復活されたイエス・キリストのことをあちこちで宣言していた最初期の頃、イエスさまの弟子たちが伝えているものは「道」であると表現(使徒19.23, 22.4, 24.14. 24.22)されていました。今日では「キリスト教」、「キリスト教の教え」と呼ばれているものですが、その最初期には「道」と呼ばれていたのです。

 

紆余曲折ある人生の中で、道標として、道の行き先案内人として、旅の同伴者として、イエスさまはいつも一緒いてくれる、その約束の言葉がこの主日の福音、「良き知らせ」です。

 

イエスさまは弟子たちから離れ、十字架への道行へ旅立ちましたが、それは、その先もずっと、いつどこにおいても、弟子たちと「一緒にいるため」でした。十字架の死の先にある「復活のいのち」、「永遠のいのち」に向かっての旅立ちであり、復活の命を通して、イエスさまは弟子たちとこれまで以上に親密に繋がっていくことを望まれたのです。弟子たちはすぐにそれを理解することはできなかったのですが・・・。