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復活節第4主日A年

ヨハネによる福音書10:1-10

 

羊飼いと羊

 

羊は非常に臆病で繊細な動物です。六甲山牧場やその他動物園にいる羊たちのように人間慣れしている羊もいますが、わたしが留学していたイングランド北部にある広大な丘で育てられている羊たちやウェールズの大自然に囲まれたところで出会った羊たちは、羊飼い以外の人には近寄りもしません。声をかけても一目散に逃げます。しかし、かなり遠く離れたところから羊飼いが口笛を吹き、声を上げるとそこに向かっていきます。自分の主人の声をしっかりと聞いているのです。

 

大きな丘などに囲いのある牧場で羊を養う羊飼いもいれば、草を追い求めて山を越え、谷を越えた移動していく遊牧系の羊飼いもいます。危険を伴う旅路の中で小さな子羊の面倒も見ながら、日中も夜間も羊たちを見守り、旅をするのです。

 

パレスチナでの羊飼いは自分の羊一匹一匹に名前をつけ、覚えていたそうです。牧草を食べに出るために「門」の外に連れ出す際には多くの羊たちであふれていて大変苦労したことでしょう。

 

緑の牧場

 

詩篇23篇には、「主はわたしの牧者であり、自分には乏しいことがなく、緑の牧場に伏させ、憩いの水辺に伴われる」、という素敵な詩があります。緑の牧場、憩いの水辺とは、いのちを受け、育むところです。主なる神さまはわたしたちに安住の場を与え、いのちを与えようと招いてくださるのです。

 

信頼関係

 

現代社会において欠けているものとして挙げられるのは「信頼の欠如」です。自分を守る、物事を疑って見る、ということは生きていく上で必要なことかもしれないのですが、反対に「信頼する」という行為、生き方が非常に難しくなってきています。自己責任、自己管理という能力が求められ、すべて自分でコントロールしなければならない、それが出来ない人は能力がないとか、成功できないとみなされる社会の中で生きています。このような枠組みの中においては、「他者に支えられて生きる」、「他者に委ねる」という生き方は、愚かで怠惰であるとみなされるのです。

 

神さまを信じること、それは自分を超えた大きな存在である神さまにありのままの自分を差し出すことです。自分が生まれてきたのは自分の力を超えたものによるものであり、また、自分のこの先の人生も自分の思い通り、計画通りにはいきません。一寸先のこともわからないのです。ゆっくりと思い巡らして見ますとこのような事実に気がつくのですが、人生の大半は慌ただしくてそこに目を向けることができません。

 

聖書における「信仰」という言葉には、行き先は見えないけど、その先の旅路に神さまが共におられ、先立って道を備えてくださっていることを信じて、一歩前に踏み出すこと、そのような意味が込められています。先が見えない、自分でコントロールできなくて不安だけど、神さまを信頼して前に進んでいこう!、という勇気が与えられますように祈り求めたいものです。