ルカ24:13-35
遮られた目
クレオパともう一人の弟子に復活のイエスさまが現れ、旅の同伴者となります。しかし、2人の目は“遮られていて”、イエスさまであるとは気づくことはありませんでした。
対話は続けられていきます。二人はイエスさまの受難のこと、死のこと、そして、復活のことに触れますが、二人は復活のイエスさまを見出すことができなかったと話します。
聖書全体を見ること
二人の言葉を聞いた復活のイエスさまは言います、「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのでないか」と。そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、“ご自分について”書かれていることを説明されました。
目は遮られ、理解できず、心が鈍くなってしまっている二人に対して最初にされたことは、聖書全体に目を向けさせることでした。
聖書の言葉、知りたいという熱意
遮られた二人の目が開かれたのは、復活のイエスさまがパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂き、渡された時であると記されております。しかし、目を留めて頂きたいところは、遮られた二人の目が開かれる「きっかけ」となったものです。それは、「聖書全体に触れたこと」、そして、聖書を通してこの方にもっと聴きたいと思い、まだ誰であるかわからないままであったにもかかわらず、“一緒にいて欲しい”と願った二人の「熱意」がきっかけとなっているという点です。
心を燃やす
二人の目が“開かれ”、イエスさまだと分かった途端、その姿が見えなくなったのですが、二人は失望するのではなく、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合いました。
この箇所にある「二人の目は開け」は、原文であるギリシア語では受身(受動態)です。これは復活のイエスさまが主体であることを示しています。二人に特別な能力があったわけではありません。イエスさまがこの二人の目を開くのです。二人の目は復活のイエスさまとの出会い、対話を通して、聖書全体に目を向けるようにと導かれたことを通して“開かれた”のです。それは物を見る目であったと同時に、イエスへの信仰の目、二人の内側にある心の目でもありました。
わたしたちは今、聖餐における恵みのしるしであるパンとぶどう酒を受けることができず、寂しい思いを抱いているのですが、聖書の言葉に目を向け、触れ、味わうことを通して、共におられる復活のイエスさまを実感し、信仰の目を開いて頂き、信仰の灯火を燃やしていきたいものであります。